こんにちは、しもんです!
今朝、興味深いツイートを読みました。
アマチュアの方が技術がないのはこれは仕方ないと思う。しかし音楽に携わる者や音楽家を志す者の中に心がない人たちが多いのはこれは一体どういうことだろう。 https://t.co/JfU1kQsUbC
— 松本和将/Kazumasa Matsumoto 12/21続・ベートーヴェン三大ソナタ (@kazmatsuki) March 23, 2021
『心がなくては機械だし、理性がなくては人ではなく、技術がなくてはアマチュアに過ぎない。』
ここで言う「技術」というのは感動させる技術(テクニック)というよりは、指が動くなどのメカニック的な技術のことを指していると思われます。
ホロヴィッツの言葉に対して松本先生は、
『アマチュアの方が技術がないのはこれは仕方ないと思う。しかし音楽に携わる者や音楽家を志す者の中に心がない人たちが多いのはこれは一体どういうことだろう。』
と仰っていて、それに対して私のツイートがこちらです。
ディーナ・ヨッフェ先生とお話したとき、
「ショパンコンクールでも心のない演奏をする人はいる。コンクールで入賞するためにミスのない演奏を目標としているのが原因の一つ。私たちの世代がコンクール至上主義を作ってしまった。」と涙をためながら言ってくれたのが強く印象に残っています。 https://t.co/37nbnENC4H
— 佐野 主聞 / Shimon (@Shimon_Sano) March 24, 2021
ディーナ・ヨッフェ先生とお話したとき、
「ショパンコンクールでも心のない演奏をする人はいる。コンクールで入賞するためにミスのない演奏を目標としているのが原因の一つ。私たちの世代がコンクール至上主義を作ってしまった。」と涙をためながら言ってくれたのが強く印象に残っています。
心のない演奏はなぜ生まれるのか
心のない演奏をする人は残念ながらたくさんいます。
今の時代はネットに気軽に演奏を投稿できるようになったこともあって、技術(メカニック)がすごいだけで持て囃されるような時代でもあると思います。…その演奏に心がないにも関らず。
機械のような演奏に人間たちが喜んでいる…これって怖くないですか?
むかーしむかしボカロが流行ったときに思ったけど、
人間が機械的ななにかを愛する気持ちはわかる。
でも、それは機械が人間的なことをしていることに対する愛なのであって、人間が機械的に動くことに対して愛を感じるのは何か違うのではないかと個人的には思うのだ。シンプルに怖い。
話は逸れましたが、
ディーナ・ヨッフェ先生が仰っているようにコンクールによってミスのない演奏が評価されるようになってしまったために、心のない演奏が増えたと私個人としては考えています。
コンクールを審査する側にも問題がある
心のない演奏はコンクール至上主義が生み出したものだと思う。
でもそれは出場するピアニストが悪いと言うわけではなく、審査する側の問題もある。
というか、負の連鎖になっていると思う。
審査する先生方は何日もの間1日100人とか演奏を聞かないといけないわけで、そんなに集中力が保たないのです。
かなり語弊がある言い方になるので申し訳ないのですが、
「ミスしている演奏は落とす」って感じでできるだけ体力や集中力を温存する審査の仕方になります。(これは個人差はあるし、本当に素晴らしい演奏はミスが気にならないものです)
でも、地方のコンクールはもちろんのこと国際コンクールだとしても、
✔︎ 審査員たちは体力を温存する聞き方をする
✔︎ そもそも審査員たちが音楽的な耳を持っていない
✔︎ 小さいコンクールだと審査員たちのそれぞれの権力が絡む
などがあって、正しく評価されないことがたくさんあります。
ただ、人間が人間を評価するのですからそもそも「正しい」なんてものは存在しません。
クラシックにおいてはある程度「正しい」という基準はありますが、それは人それぞれで変わるからです。(これは音楽教育の問題でもある)
だから、そもそも芸術を評価して順位をつけようとすること事態が間違っているのです。笑
1人でも多くの人が「ミスしない演奏がすごい。メカニック的に弾けている演奏がすごい。」という非音楽的な感覚から抜け出せることを願っています。
それでもコンクールには大きな意味がある
コンクールを受ける意味はあります。
・とにかく音楽を伝えたい
・自分の成長のため
・音楽仲間と出会うため
etc.
人それぞれ意味を見出してコンクールを受けるのであればとても良い機会になるはずです。
優勝することだけが意味ではないのです。
それぞれが音楽を追求していきつつ、それがたまたま認められたのであればラッキーくらいに思っておきましょう!