こんにちは、しもんです!
僕は作曲ができる人たちに最大限の尊敬を持っています。
なぜなら、自分はまだ持っていない能力だから。
今は即興は個人的な趣味としてやっていて楽しいし編曲も自分でやることはありますが、作曲はない。
なぜ作曲や即興というものが小さい頃に嫌いになってしまったかというと、
①自分はやりたくもないのに音楽教室でやらされたから。8小節のモチーフを何個も考えるのが苦痛で仕方なかった。
②「なんでできないの?!」と何回も言われたから。(あるはずのない)正解(のようなもの)を導き出さないといけないのが辛かった。
③自分で選んだ音なのに先生に訂正されたから。
④世の中にはすでに、素晴らしくて自分を表現できる曲がたくさんあるのになんでおれが作曲しないといけないんだって思ってたから。
僕はそもそも偉大な作曲家たちが作った曲を演奏するだけで最大限の幸せを感じる人間なのです。
作曲家にとって作曲をするというのは、苦痛もあるとは言っても最終的に喜びが勝ると思うのです。
でも僕が喜びを感じるのは演奏だけだった。
自分が新しい音を誕生させることに喜びなどなかった。
なぜならそれは自分から出てきた本当の音ではないし、そもそももっと素晴らしい作曲家がいるからだ。
他人との比較は良くないが、当時の自分はどうしてもそう感じてしまったのだ。
自分がやる意味ある?
と。
ちなみに演奏に関しては、小さい頃から「自分には自分の表現したい音がある。世界中で自分にしか表現できない音がある。」と明確に分かっていた。
「自分がそう思っていた」とかじゃない。「分かっていた」のだ。
世界の過去や未来すべてを見ても、自分にしか出せない音があると分かっていた。
きっと、作曲をする人は作曲に対してこういう感覚なのではないかと思う。
僕は0から1を生み出すことに喜びは感じないが、1を100や1000にすることはできる。いや、こんなことを言うとクラシックの専門の人には怒られるかもしれない。
「僕が好きなのは1を1として提供することだ。」
こう言ったらクラシックを専門に勉強している人たちは満足だろうか?
※クラシックは自分の個性を出そうする余地はない。
出そうとしなくても自然に出るからだ。
自分を出そうとした瞬間にクラシックは歪む。
もちろんそういう演奏でも素晴らしい音楽体験はできるが、”クラシック音楽” は歪んでしまうのだ。
とにかく、自分は演奏が好きだった。
作曲をすることで当時の自分が得たものは劣等感と作曲家への敬意だ。
作曲家への敬意を感じられたのは良かったが、劣等感を抱かせる教育は害でしかないと思う。
自分の曲を作りたいと思うときは来るのだろうか
「今の時代は特に自分の曲を持っている人が強いな」というのはある。
でも、そんなものを興味のない自分が追いかけても意味がないのだ。
自分は自分の興味のあるものをひたすら追い求めていく。
その先に、もしまた作曲と邂逅するときが来るかもしれない。