エッセイ

言論の自由の抑制

昨日のラ・ラ・ランドについて書いた記事に思った以上の反響があり、色々な人の意見が聞けたので本当に嬉しかったです。

SNSにコメントしてくださった皆様、ありがとうございました。

 
何故昨日の記事を書いたかと言うと、

「自分と違う意見の人があまりにも多いとき、意見が違う周りの人との関係をギクシャクさせたくないために、自分の意見を言えないことがあるのではないか」
 
 
「批判することは悪いこと、みたいな考えが少なからずあるのではないか」
 
と思ったためです。
 

人の尊厳を傷つけるのはもちろん良くないけれど、

意識・無意識に関わらず、周囲と同調しようとして表現の自由(言論の自由)を自分自身で抑制している人がいるのではなかろうか。
 
 
確かに、
意見や価値観が違う人には自分の意見を言わずに受け流して、適当に賛同しておけば良い、というのもわかる。

 

でも、意見は意見、その人はその人。

「考え方」と「その人自身」を、完全には無理でも少しだけ分けて考えることができれば

違う価値観を持った人間を憎むことも少なくなるし、違う意見や価値観を知ることで自分のアイデンティティを知ることもできる。
そもそも「その人の中のたった一つの考え方」だけで、その人そのものを計るなんておこがましいことだと思いませんか?

 
あと、信頼関係がそこまで築かれていない相手との関係において、

自分は反対意見を持っているのに、
賛成意見が多すぎたり
一対一の会話でも「〜だよね」「〜ですよね」の「ね」の部分で相手から共感を求められると、
自分の意見とは違っても賛同してしまう時がある。

「素晴らしかったよね!」と言われて、いきなり反対意見を言うのは気が引ける。
本物の信頼関係があれば意見が言えるけど。


ネットを介してのやり取りなら無視すれば良いのですが、
相手と同じ空間に居る時は、人は他人と同調する性質が顕著に出る。
それが「合理的な同調」なら良いけれど「不合理な同調」だと居心地が悪い。

例:
A「これ可愛い”ね”〜!」
B「かわいい〜〜!!」
C「(えー、興味ないし全然可愛いと思わないけど、空気を壊さないように同じ意見言っとこ。)…うん、かわいいー。」


相手に共感を求めさえしなければ、もしかしたら人間関係における居心地の悪さを防げるかもしれない。
もしくは「これどう思う?」「あれはどう思った?」と相手の意見から先に聞けばうまく行く気がします。
 
これは少し難しい問題で、
親しい関係になればなるほど
「自分の価値観を共有したい。共感してほしい。」という欲求が生まれてしまうので、
うまく共有できなかったり共感を得られないと失望して相手を嫌いになる、
なんてことになってしまう。
 
その時に「意見は意見、人は人。」と思う努力をしないと、きっと人間関係は続かない。
 
恋人なら別れて済むことかもしれないけど、人生にはもう少し複雑な人間関係があるだろうから。
 
 
お互い絶対に分かり合えないということを悟ってからが本当の人間関係だと思う。
 
その時に、話し合いをしてお互いに歩み寄る努力をして、それでも無理なら「気にしない」「忘れてあげる」しかない。
 
もしどうしてもダメなら、無理して関係を続ける必要はないのではないでしょうか。
 
次に、
「批判はそれ自体が良くないこと」という考え方の人もいるけれど、
私は、人に良い影響を与えられる批判だったら素晴らしいことだと思うのです。


良くないのはただ無意味に「非難」すること。
自己肯定するために他人否定する人間、
信頼関係も築けていないのに愛の無い非難をする人間とはできるだけ離れた方が良いと思います。
批判するときでも相手の尊厳を傷つけないように「言葉を選ぶ」「伝え方を考える」ための時間と心は絶対に必要なのはわかっているし、
それを伝える人との信頼関係によって言葉や伝え方も変わってくるのも当たり前のことだけれど、これが自分としてはなかなか難しい。
 
昨日のブログをFacebookでシェアしたら、その中でもちゃんと違う意見を言ってくれる方々がいて安心しました。
 
自分のアイデンティティはちゃんと持っていて、意見は言うけれど相手を攻撃することはなく、しかもそれを文章のみで伝えられる人って素適だなぁと思う。
 


【まとめ】
 
物事には良い面と悪い面がどちらも存在するわけだから、
どのような意見であっても大きな器を持って受け入れる人間でありたいと思う。(完全なる自戒。笑)