音楽

「音楽」と「クラシック音楽」の違い

「音楽」というのは、「音」を「楽」しんでいれば音楽になり得る。
 
演奏をする人が楽しんでいて、聴く人が楽しんでいればそれは「音楽」。
 
でも、「クラシック音楽」になるためにはそれだけでは足りないと私は考えています。
今日は「プロのクラシック音楽の演奏家」を対象に、
プロのクラシック演奏家たちに持って欲しい一つの視点をシェアします。
※これから書くことは、
クラシックが他のジャンルに比べて優位である、などという考え方は一切なく
ただただクラシック音楽の中で「音楽」になるか「クラシック音楽」になるかの比較であることをご理解ください。

クラシックは確かにお堅いのかもしれない



「音楽」は色々な演奏を許容できる広い器を持っているけれど、「クラシック」は「音楽」よりもっと狭い。

 

理由としては、
音楽の三大要素であるリズムとメロディーとハーモニーの感じ方が他のジャンルとはだいぶ違っていて、クラシックは音のみでそれらを表現することによって音楽的な深さが出るからです。
この言い方は少し語弊がありますが、
視覚的な要素を入れすぎたら音への集中が削がれるし、音そのものに深さがないとクラシックの魅力が削がれてしまう、と個人的には思っています。
音楽的に楽譜を読む方法「楽譜を読む」「楽譜通り弾く」ってどういうことなんだろう。 この疑問に答える前提としてわかって欲しいことは、 人が奏でる楽器...
 
 
さて、「クラシック音楽」は、いわば「世界遺産」のようなもので
そのままの姿で残して次の世代に伝えていかなければならないものだと私は考えています。
 
 
 
例えば、
マチュ・ピチュを破壊したり、どこかに落書きをしたり
岩を持ってきてそこらへんに置いて「これがマチュ・ピチュだ。」
と言っても世界中の誰も納得しないのと同じで、
 
 
クラシック音楽の楽譜に書かれたことを正しく読み取らずに自分の弾きたいように弾いても、「音楽」にはなり得ても「クラシック音楽」にはならないのだ。
 
 
それほど「クラシック音楽」には「あるべき姿」がある。
(これは「クラシックは敷居が高い」と言われているのとは別次元のことです。)
 
 
「あるべき姿」を習うために先生が存在しているのだけれど、
先生方がクラシックの伝統や音楽的な楽譜の読み方を知らないと、クラシック音楽が歪んだ状態で伝わってしまう。
 
 
そして、
いくら「クラシック音楽が好きだ!」と言っても、
 
愛し方を間違えたら意味がないどころか逆効果だ。
 
愛し方というのは、楽譜の読み方やそれに則した練習の仕方、そして本番での演奏の仕方と言えるけれど、
 
愛し方を知らなかったり、自分で愛してると思っていてもそれが歪んでいると真のクラシック音楽ではなくなってしまう。
 
 
例えば、大好きな人がいるからといってストーカー行為をしたらそれは正しい愛と言えるだろうか?
 
人間関係だと愛し方を間違えると犯罪にもなりうる。
 
犯罪にまで至らなくとも、精神的な束縛や支配などの歪んだ愛になりうる。
 
そんな歪んだ愛だと自分がいくら愛していると思っていても、
クラシック音楽そのものからは愛されない。
 
 
クラシック音楽の愛し方を間違っても犯罪にはならないけれど、
 

残念ながら、それくらいのレベルで愛し方を間違っている演奏が多く存在するのも事実。

 

私も本番でテンション上がりすぎたり、お客さんを楽しませるために、
作曲家が遺してくれた遺産を傷つけてしまうような演奏になることがある。
 
そういう演奏も「音楽」としては許容できるし楽しめますが、
「クラシック音楽」としてはどうしても次元が下がってしまうのは確かなことなのです。
 
 
クラシックの中にも技巧的な曲は沢山あるが、
それをクラシックの持つ響きの美しさで表現できたら更に感動できるのではないかな、と思う。
 
テクニックを「テクニック」と感じさせない演奏が本物なのだ。

クラシックのみならず、人として必要なもの

 
 
ここ最近、
クラシックをちゃんと勉強してきて、更に成長し続けている人の演奏を2日連続で聴けて本当に嬉しかった。
そういう演奏を聴けると安心する。
 
 
そして、音楽的に成長する努力をやめたら終わりだな、とつくづく思う。
 
そのためには、素直さや真摯さが必要になってくる。
 
ということは、
良い音楽家になるためには、良い人格を持つ必要があるということだ。
「人生死ぬまで学び。」
この謙虚さを忘れた時に、人は成長をやめるのだと思う。