エッセイ

親友・心友という言葉

「親友」「心友」の言葉の定義って人それぞれだと思うのですが、

私は自分でこの言葉を使おうとする時にいつも違和感を覚える。


単純に言葉の意味は
「親友→親しい友人」「心友→心から理解しあっている友人」だけれど、


私としては
「親友」は「親しい友人」という言葉よりも更に高尚なイメージ、
「心友」という言葉に関しては使うこともできないくらい崇高なイメージを持っています。笑


ただ、世の中で使われてる「親友」は「心友」と同じような意味合いで使われている印象があるので今日は同じ意味として用います。


そもそも「心から理解しあえる友人」と思い込むことなんておこがましいと思ってしまう。
相手のことを100%理解できることなんてありえない。
そう思ってるとしたら驕り高ぶりだと思う。
だって、自分と100%価値観の合う人間などこの世には存在しないのだから。

たったの数%を知っただけで相手のことを理解したつもりになるなんて、
おこがましいと思いませんか?


この「しんゆう」という言葉の意味が
「相手のどんなことでも受け入れる努力できて、どんなことでも赦す努力ができて、相手ために自分を犠牲にすることが喜びである友人」というのなら、そういう人は存在すると思うけれど、

そんなに「しんゆう」って多いものなの?
純粋に疑問に思う。
もしそれが本物の「しんゆう」だとしたら、本当にすごいことだと思う。


もう一つ。
もし自分に「親友」「心友」がいたとしても
できるだけその言葉は使いたくないんです。
(今までの人生で何百回も使ってきましたが。笑)

「親友」「心友」であることを他の誰かに知ってもらう必要はないし
言葉にしてしまうとそれだけで偽物っぽくなってしまう気がするんだよなぁ。

いつもこの言葉を使う時、
「そんなに簡単にこの言葉を使って良いものだろうか」と自分に問いながら使っている。笑

だいぶ昔、
「お二人は親友なんですね!」と言われて
「親しいですが”親友”ではありません。」と答えたことがあった(笑)

もちろん自分の中での「親友」という言葉の定義は説明したけれど!

きっと自分で「しんゆう」という言葉を使う時は
「この人は自分の”しんゆう”であって欲しい」という願いみたいなものが込められてる気がする。