YouTubeでたまに、
「正確に弾いている」、
「ミスタッチがない」or「ミスタッチしてる」
という類のコメントをいただくのですが、クラシックにおいてそこは本質ではないんですよね。
(「音楽において」と言ってしまうとまた炎上するのであえてジャンルを限定してます)〜続く
— 佐野 主聞 , (@Shimon_Sano) 2019年7月19日
先日こういうツイートをしたところ、
YouTubeでたまに、
「正確に弾いている」、
「ミスタッチがない」or「ミスタッチしてる」
という類のコメントをいただくのですが、
クラシックにおいてそこは本質ではないんですよね。
(「音楽において」と言ってしまうとまた炎上するのであえてジャンルを限定してます)
ミスタッチ自体には問題がなくて、
✔︎自分の頭の中で理想の音・音楽を鳴らしておいたかどうか
✔︎身体の使い方がその音を出すための最小限の力と最低限の動きだったか
✔︎理想の音かどうかを耳で聴けたか
この3つの方がよっぽど大事。
例えば、
ミスタッチに囚われて音を当てにいく練習をしても、
クラシック音楽としては無意味どころか音楽を阻害してしまうことになる。
【リズムとメロディーとハーモニーを感じる】という音楽的な理由からミスタッチを考えていけば、ミスタッチを気にするにしても理由も変わります。
こういうコメントをいただきました。
僕もそう思ってたんですけど、ミスって出た音って当然理想の音じゃないんだから、ミスタッチ無くさなきゃなーと最近は特に思うのです。無くなんないけど。
— 菊池直彦 (@naohiko25) 2019年7月19日
このコメントに対してTwitter上で返信するのは文字数の関係で大変そうだったのでブログで答えます。
「ミスタッチ=理想の音じゃない」を考える
例えば
ファッションや人間関係の場合、
「外見が変わると内面も変わる」
「立場が変わると行動が変わる」
という事が起こり得ますよね。
確かに、コメントをくださった方の言わんとしていることはわかります。
「ミスタッチを無くすことで理想の音になる」
半分賛成ですが、この考え方だとかなり危ういことになる可能性があると個人的には思っています。
なぜなら、
音を出す場合は「なぜその音を出すのか」の方が重要で「どうやってその音を出すのか」はその次にすることだからです。
上記のコメントの考え方だと、
「どうやってその音を出すのか(ミスタッチしないためにどうやって弾くのか)」だけを考えてしまう危険性を孕んでいます。
どうやってミスタッチしないで弾けるか、だけを考えると機械的な演奏になってしまう可能性があります。
「どうやって」よりも、
【なぜ】その音を出すのかを考えて
音楽(リズム・メロディー・ハーモニー)を感じた音を紡いでいくとミスタッチは気にならなくなるということがおきます。
ミスタッチした音=音楽的に理想じゃない音
ではなくなるのです。
「そのミスタッチを気にしすぎて音楽を感じられなくなる」というなら、
それはまだ最初から音楽の感じ方が足りていないだけだと思います。
しかし、理想の音を出すために試行錯誤している過程で、
奏法や響きの感じ方が大きく変わってくる時があると思います。
(頭、体、耳の使い方が大きく変わってくる時がある。)
この時は結構大変です。
自分の中で、音楽と、心・頭・体・耳が統合されていないように感じて、
ミスタッチがめちゃくちゃ気になることもあると思います。
その時は時間が必要です。
私も悩むことがあります
私も音楽がうまく統合できずに変なミスタッチが気になることがあります。
おそらく、ミスタッチしない音じゃないと理想じゃないと感じるいうのは音楽を大きな視点で捉えられていないからです。
音楽をさらに大きく、「芸術」という視点で捉えるとミスタッチすら芸術になるので
【音楽】を今自分ができる限り感じているならそれで良いと思います。
なぜなら人間は完璧にはなれないからです。
完璧な演奏家は昔も今も未来も存在しません。
もしあなたが完璧だと思っている演奏家がいても、それはあなたの価値観の中で完璧だと思っているだけで万人にとって完璧な人間など存在しないのです。
なので、自分を許すことも必要だなぁと最近特に思うのです。
とりあえず、時間が必要な時はあるので悩みつつも変化を受け入れて成長していきたいですよね!
最後にネルセシアン先生の言葉を。
昔パーヴェル・ネルセシアン先生が、
「本番で演奏する時にミスタッチしたり暗譜が飛んだりすることがあっても、
聴いている人や寝てる人はその瞬間にハッと緊張して集中力を取り戻したりするから、そういうことも含めて芸術なのかもしれない」と言っていて、めっちゃ面白いアイディアだと思った。
— 佐野 主聞 , (@Shimon_Sano) 2019年6月22日