エッセイ

「先生」という存在

ここ数年、「先生」と呼ばれることが多くなってきてしまったのですが、

実はそう呼ばれるのはあまりしっくりきません。
まだ慣れない。笑


というのも、

「先生」って
人格的に素晴らしく、知識や経験も豊富な人が呼ばれるべきだと思うのです。


政治家さんたちが「先生」と呼ばれながら汚いことやってるのを見て、

小学生の頃から嫌悪感をいだいていました。

「てめぇらなんか先生と呼ばれる資格はねぇ!」…と。
(因みに小学4年の時の将来の夢は『総理大臣になって日本を変えること』。笑)



特に、
私より年長の方に「佐野先生」と呼ばれると、どう返事をして良いかわからなくなります。笑

こちらが気にしなければ良い話なのですが、
なんとなく申し訳ない気持ちになる。


昨日の記事でも「貴様」とかいう言葉を、
テンション高いまま使ってしまう人間が人格的に素晴らしい訳がないので、


「先生」の代わりに、

親からもらった「主聞」という面白い名前があるので、
それに「君」なり「さん」なり「ちゃん」なり、
呼び捨てするなりしてくれた方が個人的には嬉しい。



「先生」と呼ばれることで、
「そう呼ばれるに値する人間になろう!」と気持ちは引き締まるのですが、



将来的に

生徒を持つことがあっても
「先生」とは呼ばせずに、

留学中のように、先生と生徒が名前で呼び合って
家族のような門下を築きたいと思っているので、

親しさを込めた呼び方の方が個人的には嬉しく思う。


日本だとなかなか難しそうだけど!笑

92歳のメナヘム・プレスラー先生も、
「メナヘム」とか「メナちゃん」って呼ばれてるんですよね。

そう呼ぶ人の中に、彼を心から尊敬していない人など存在しません。


日本の文化では言葉遣いによる人間関係が大事だとは思うけど、

音楽を学んでいく身に先生も生徒も関係なく、
お互いがお互いを成長させる役割を果たせるはずなので、

先生 > 生徒

ではなく、最低でも

先生 ≧ 生徒

になるべきだと思っています。

「音楽そのもの」から見たら先生と生徒は対等なので。

どちらもちっぽけな存在です。


先生 > 生徒

だと先生の力が強すぎて、
生徒が音楽を嫌いになってしまう可能性が少なからずある。

歪んだ権力を生徒に振り下ろす「先生」も残念ながら存在している。


生徒との距離感や関係性のバランスをとるのは、相当難しいことはわかるのですが、

生徒に対してどんな言動をとるにも

『信頼関係が出来上がっているか』

が一番大事ですよね。




今の日本の社会や、学校などの組織では、

知らない先生でも「◯◯先生」と呼ばざるを得ないが、

上下関係や尊敬を表す言葉というのは、

そこに「信頼関係」が存在するかしないかで、

美しくもなるし、全く無意味な醜いものにもなり得るのだ。



「形だけだとしても言葉は大事」なのは分かっているけれど、

その「形だけの言葉」を「本物の気持ち」に変えるのは、

先生と呼ばれる人の役割が大きいと思うのです。