さて、前回の続きです!
ピアノでクラシック音楽を弾くことを前提として話します。
身体の動きは、
音楽を心から純粋に表現するために自然と出てきたものであれば良いのですが、
「誠実に音楽を求めた結果」ではなく、
「自分を良く見せるため・お客さんを視覚的に喜ばせるため」に音楽を犠牲にして身体を動かす演奏家がいます。
「こうすればかっこいいだろう。栄えるだろう。」
「ここでこういう身体の動きをしたら奇抜で面白いかもしれない。」
大袈裟な身体の動き & 顔芸の能力は豊富なのに、全然それが音として現れていない人。
もし大袈裟な身体の動き & 顔芸をやっていたとしても、
実際に聞こえてくる音楽がそれ相当の素晴らしいものであれば全く問題ない。
しかし!
無駄に手を空中に上げてみたり、
リズムを感じているフリをするために揺れてみたり、
打算的な動きでうわべだけの音楽をしてる人!
…全て過去の自分です。。
本当に自分に酔ってた。自分だけ気持ちよくなってた。恥ずかしい。
もちろん、
音楽は誰のためでもなく、まずは「自分のため」にあるべきで、
音楽でしか表現できない自分の感情があって、自分が音楽に癒やされて元気をもらうならそれで良いし、音だけでは聴いている人に伝えられなくて大袈裟な動きで弾かないといけない時もある。(ロビーコンサートなどで周りがガヤガヤしてる時など。)
しかし、プロの演奏家として人前で弾くということは、
自分が感じている音楽を、時間と空間を通して聴いている人と共有することだと思います。共感されるかどうかは別として。
そのためには心のもっと深いところで音楽を感じて、それを音にして伝えないといけない。
音楽を分かっているのに真摯に向き合っていない過去の自分のような人は論外として、
「音楽を深いところで感じているけど、音として出てこない。弾いていて身体が苦しい。」というのはきっと身体のどこかに無駄な力が入っているか、無駄な動きが多いのだと思います。
話は逸れますが、
生まれたての赤ちゃんの身体って柔らかいですよね。
肌、関節の柔らかさ、これからなんでも吸収できる脳の柔軟さ…!
生命力に溢れています。
そして、年齢を重ねて死に向かっていくと、身体は段々と固くなります。
音、一つ一つは命を持っているのに、
無駄な力、無駄な動きによって身体が固くなっている状態で弾くということは、
音が死にそうになっているのと同じです。
命があるということは、呼吸しています。
「一つ一つの音が呼吸している」という感覚で耳を使えば、弾き方も自然に変わってくるかもしれません。
特に速い指の動きや、強さを必要とする場所において、
親指や小指が反っていたり、逆に巻き込んでいるのは無駄な力が入っている代表例として良く知られていますが、
私は大学時代に無駄な力が入っていることに気付いて、それを改善するのに本当に苦労しました。
その時は、とにかくリラックスした状態で音階をゆっくり歌って弾いて聴いて、
心と体と頭と耳を結びつけることに時間を費やしました。
音階を本当に音楽的に美しく、身体に無理なく弾ける人はどんな曲でも音楽的に弾くことができる基礎がついていると思います。
長くなってしまったので、今日はここまで!
今回はソロについて思っていることを書きましたが、次回はアンサンブルの時の身体の動きついて書きます!