音楽

クラシックのピアニストが陥りやすい演奏、3タイプ!

今日はクラシックと、ジャズやその他の音楽ジャンルとの違いについて、演奏家の立場から感じていることを話します!
一つの記事では全くもって書ききれない上に、説明不足になるのも目に見えているので何回かに分けて書こうと思います。



違いなんて数えきれないほどありますが、どのジャンルも「音楽」であることに変わりはないのと、それは「違い」であって「差」ではないということは最初に断っておきます。


まずクラシックと他のジャンルの違いは「完成された楽譜があるかないか」ということですよね!
「完成された」と敢えて書いたのは、他のジャンルにももちろん楽譜はあるのですが、
クラシックには作曲家の言葉や想いが完璧に込められた楽譜があるからです。


演奏家は、
作曲家が楽譜に書いた「リズム・メロディー・ハーモニー」を読み解いて、それを今の時間と空間に解き放つ役目を担っていると思うのですが、

ここで、クラシック音楽においては改善した方が良いと思う、演奏家3タイプを紹介します!

演奏家、3タイプ

 

タイプ1→楽譜を無視して自分の感じたい放題・やりたい放題の音楽をして、ただただ自分が気持ち良くなっているだけの演奏。(過去の自分)

タイプ2→楽譜通り弾くことに囚われすぎて、全く楽しくなさそう。音楽が伝わってこない演奏。

タイプ3→ちゃんと音楽的に楽譜を読んでいても、そこに生の演奏としての面白みや感動がない演奏。


タイプ1と2は極端だろ!って思うかもしれませんが、実は結構います、このタイプ。
コンクール入賞とかしてる人でも沢山います。


タイプ1については、
クラシックの演奏というものは「自分を出そう、自分を表現しよう!」なんて思わなくても、真に正しく楽譜通り弾けば「自分」というものは自然に出てくるのに、
自己顕示欲が強すぎるのか、本来あるべき姿を無視して弾いてしまっています。


タイプ2については、
実はその人たちは、楽譜に書いてある本当の意味をわかっていません。
「ここはpって書いてあるから弱く弾く。」「2分音符だから2拍伸ばす。」みたいな間違った楽譜の読み方をしています。


この2つのタイプともに、実は本当の意味で楽譜が読めていないんです。
もちろん「作曲家が書いた音楽が世の中に出て行ったら、もうそれは作曲家だけのものではなく、みんなのもの」なので、
演奏家それぞれの自由な解釈で良いのだけれど、

《楽譜という言葉を無視して弾くということ》は、
《「遺灰はサハラに撒いてくれ」という遺言があるのに、遺灰をトイレに流した》みたいな行為と一緒なのではないかと思います。
(全くうまい例えが思い浮かばなかった!笑)



さて!
ここまで無計画に文章を書いてきて、
「こんな感じで書いちゃうと【本当の楽譜の読み方】も説明しないと伝わらないよなぁ」と思いました(笑)
これについては言葉で説明できるのですが、とんでもなく長くなってしまうので詳しい説明はまた今度にします!

※書きました。

https://sanoshimon.com/2016/06/08/%E9%9F%B3%E6%A5%BD%E7%9A%84%E3%81%AB%E6%A5%BD%E8%AD%9C%E3%82%92%E8%AA%AD%E3%82%80%E6%96%B9%E6%B3%95/


因みに、タイプ2の人は、
音楽がそもそも楽しいのか、音楽ってなんなのかわかっていないのかもしれません。
それはその人が悪いのではなくて、大概はその人の先生の責任です。

その先生も「本当の意味で楽譜通り弾く」ことをわかっていないから、
ただただ間違った楽譜の読み方を「楽譜通り」として教えてしまって、生徒は作曲家が書いた楽譜の意味を知ることができません。

手紙に書いてある言語が自分の知らない言語だったら読めませんよね。
それと同じで楽譜に書いてある言葉がわからなければ、表現しようがありません。


一言で誤解を恐れずに言うなら

実際に自分が歌うように弾け!】

ということです。




今日言いたいのは、タイプ3の「音楽的に楽譜を読めているけど面白くない演奏」について。



この人たちには是非とも楽譜から解放されて、自分のものとして消化された音楽をしてほしいのですが、
是非ともそういう人たちはジャズとかフラメンコとかボサノヴァとかクラシック以外の音楽ジャンルを聴いてください!見てください!


完成された楽譜がないジャンルは、
身体で感じたことをそのまま音や身体で表現しますよね。
その「生の感覚」「アドリブの感覚」で音楽を楽しむということが、
タイプ3の人には圧倒的に足りていないと思います。(自戒の念も込めて。)


留学中にグラナダの旧市街(サクロモンテやアルバイシン)に行ってフラメンコを見たのですが、もう音楽自体が彼らの血肉となっている感覚というか、
練習とかでどうにかなる範疇を超えていると感じました。
そして、彼らはただただ音楽を楽しんでいるだけ、という感じ。

そのレベルにまで行くためには、

 

①まずは楽譜を音楽的に読んで
②作曲家が表現したかったことに共感して
③その共感を完全に自分のものにするまで弾き込んだ後に
④全ての枠を取り払って感じたまま演奏する

この4つを段階的にやるというよりは、
真っ白な心の状態で心と身体をリラックスさせて、
「考えること」と「感じること」を同化させて素直に身体に反応してもらう感覚。
「頭」と「心」と「身体」が一体化していく感覚だと思います。


言葉で言うのはなんて簡単なのだ!実際にやるのが難しい!笑


僕自身の経験として、
「全てが一体化した上で弾いているという感覚すらなくなって、自分は客席の一番後ろの席で良い音楽を聴いているだけ」

という感覚になったことが3回だけあります。
無我の境地なんて言ったら言い過ぎかもしれませんが、
弾いている自分を遠くで見ているもう一人の自分がいる感じです。

その3回で感じたような「自分が弾いていることすら忘れる感覚」はもう経験できないかもしれません。
というのも、大人になるにつれて「弾いている時に時間と空間を感じる能力」が上がってくるので、弾いている自分と聴いている自分をバランス良く持てるようになるからです。

でも、音楽【音を楽しむ】というのは、基本的には耳で楽しむものなので、
演奏家がどれだけ「時間と空間を感じることができるか」、
「音楽的に耳を使えるか」にかかっているのではないでしょうか!